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キューデンヴォルテクス五十年史 前史~1959年度

2019.04.01

九州電力ラグビー部 前史

大正11年(1922年)九州電灯鉄道が東邦電力福岡支店になった時、慶応大学OB社員の横山通夫、伊丹三郎氏等が「九州ラグビー倶楽部」を作って九州にラグビーを広めると共に、東邦電力にもチームを作ったのが九州電力ラグビー部の創りだと九州ラグビー史に記されている。
戦争が始まり、九州配電の時代を迎えるが、若い社員が兵役にかり出され、ラグビー部員も少なくなって行く。それでも支店対抗戦は細々と続けられた。
終戦と共に九州ラグビー界は一早く復興し、配炭公団、西南学院、福岡中学が全国制覇を達成、三井化学、八幡製鐵がこれに続き、福岡は日本ラグビー界の先頭に立った。
佐藤篤二郎社長の命を受けてラグビー部再起のため。藤原勉人事部長が労働組合電産と渡り合い、解散した配炭公団から主力5選手を入社させ、再起の核とした。さらに福岡支店吉本隆次労務課長等の骨折りで昭和25年3名、昭和26年5名の即戦力選手が補強され、どうにか対外試合が出来るメンバーを揃えることができた。
次いで支店、営業所に別れていたラグビー部を一本化し、本店、福岡支店、福岡近郊の営業所に部員を配属し、皆が一緒に練習できることとなった。OBをはじめ多数の先輩の支援のお陰で今日にいたる体制がここに確立したのである。

1951年度 ラグビー王国福岡に挑む

昭和26年5月1日、電力再編成で九州電力が誕生した。
前身の九州配電は東邦電力時代から九州のラグビーの草分け的存在であり、店所対抗試合が戦前から開催されていたが、戦後の九州ラグビー界には、昭和24年に始まった全国実業団大会を制覇した配炭公団(第1回)、三井化学(第2回)、八幡製鐵(第3回)や門鉄などが君臨していた。
再建を目指す九州配電は、解散した配炭公団から主力5選手を補強、本支店・営業所のラグビー部を統合するとともに、新人獲得にも力をいれて強豪に割り込んだ。厳しい練習について行けない選手は振り落とされ初期のメンバーが形成された。九州電力としての初陣は、実業団大会九州予選の初戦でこの年全国2連覇を果たした八幡製鐵と対戦し、3-11で敗退した。
電力再編成を機に始まった電力親善大会では初優勝を果たし、以降ただ一度の3位を除いて現在も連覇中である。

1952年度 全国大会への道まだ峻し

前年の6人に続きこの年も4人の新人が入部し、八幡追撃の日々が続く。専用のグランドがなく、薬院の九電野球場、外野の片隅でスクラムを組み、野球部の練習が終ると外野を走り回った。折から電産・炭労のストが激しく、朝から練習という日もある。夏合宿は堅粕の明光寺に泊まって福商グランド、火照った身体を墓石で冷し、夜は蚊に悩まされながら、猛練習が続いた。
実業団予選の1回戦で三菱精機を90-0で破り初勝利を上げたが、準優勝で八幡製鐵に0-13で敗れ、全国大会への道はまだ遠かった。八幡製鐵は全国大会で大映、トヨタ自工、近鉄を破って3連覇を達成した。

1953年度 初の全国大会、初の全国制覇

即戦力3名の入部で、強豪八幡に立ち向かう不動のメンバーが出来上がった。予選1回戦で保安隊福岡部隊、準優勝で三井化学を完封し、決勝は12月6日長崎で行われた。全国大会3連覇中の八幡製鐵の攻撃は試合開始から怒涛の如く九電陣を襲ったが、九電の激しい闘志と捨て身のタックルがこれを拒み、後半9分左中間25ヤードの松岡のPGを守り抜いて遂に王者八幡を倒し、初の全国大会出場権を得た。  
静岡草薙ラグビー場での全国大会、1回戦は近畿代表の神戸製鋼に快勝し、準優勝は優勝候補の関東代表の大映を出足のリードを守って下した。決勝戦の相手は前年準優勝の近鉄、軟弱なグランドでパント合戦が展開され、両軍すばやい集散と果敢なタックルで一進一退、前半16分のPGを守って勝利目前であったが、終了1分前痛恨のPGを許して引き分け、双方優勝となった。
九電ラグビー史に燦然と輝く金字塔を打ち立てた年である。

1954年度 九州を制する者全国を制す

SH陣をはじめ6人の新入部で一段と強化されたが、全国大会出場を逃した八幡製鐵の補強もまた強烈であり、「九州を制する者全国を制す」と言われた九電-八幡の激突の時代が続く。全国奪還を目指す八幡の猛練習は「八幡製鐵ラグビー部70年史」の圧巻である。合宿は前年度から薬院寮に移った。南公園石段のうさぎ跳びもまた打倒八幡の熱意を物語る。当然の如く勝ち進んだ両者は11月28日ぬかるみの鞘ヶ谷競技場の決勝戦で相まみえた。前半風上の八幡の猛攻を九電は完璧のディフェンスで自陣25ヤードでくぎ付けにした。後半攻守所を代え九電が押しまくったが八幡の攻防に遭い実らず、両者秘術を尽くした闘いは0-0で引き分けた。
一年間すべて0点に押さえた年であったが、くじ運我に味方せず、八幡製鐵は4度目の全国制覇を達成した。

1955年度 2年連続抽選に泣く

FW第一列とWTBが補強され、「八幡に勝って全国制覇」を合言葉に激しい練習の一年であった。 全国一を決めるとも言える準決勝は12月11日、毎日マラソン会場の平和台競技場に3万近い観衆を集めて行われた。キックオフから攻め続けた九電は13分25ヤードから中田のDGで先行、しかし直後の15分PGを許して追いつかれた。後半も九電が押し気味、八幡のPG失敗にヒヤリとする場面もあったが、結局3-3で昨年に続いて引き分けた。「製鐵がもてる力をフルに発揮したのが互角に勝負にいどめた原因」と新聞評、九電は惜しいチャンスを逃し、そして今年またもくじ運に恵まれなかった。 この3年間九電-八幡戦は両者ノートライ、八幡製鐵は5度目の全国制覇を達成した。 この年から電力親善大会の準決勝と決勝の間に1日休日が設けられ、九電はこの日を利用して開催地の強豪と試合を組むこととなる。今年の相手は横河電機、電車を乗り越してキックオフに間に合わない選手もいた。

1956年度 2度目の全国大会2度目の決勝進出

全国大会の出場チームが16に倍増され、九州代表は2チームになったが、1区(福岡県)2区(福岡以外の県)と分けられたため、福岡の激戦区は変わらなかった。そして大会優勝チームには翌年の出場権が与えられる事となったたが、これは3年に及ぶ八幡-九電の死闘が評価されたものであろう。かくて両者出場となった全国大会、地元紙は「製鐵と九電の優勝争い?」と大見出し、九電は京都市役所、横河電気、日鉱日立を連破して決勝へ進出、一方八幡は準決勝で近鉄に敗れた。九電にとっては2度目の決勝戦、相手は同じ近鉄、開始早々のPG失敗が痛く逆に5分にゴールを奪われ、挽回のチャンスは訪れなかった。 堂々たる準決勝であったが、第1回大会からの九州勢の連覇は8で終止符を打った。

1957年度 打倒八幡を目指す長い旅の始まり

全国制覇を逸した年の八幡製鐵の補強と猛練習には定評がある。この年こそ新星京都市役所に抽選負けしたが、翌年からの8年間に7度の全国優勝を果たす全盛期がスタートした。前年度優勝チーム出場制度のおかげでこの間九電も6度全国大会に出場したが、彼我の力の差は開きはじめ、以降20数年ただ一度の勝利を除き、八幡製鐵の後塵を拝すこととなる。この年も予選1回戦で顔を合わせたが互角に闘えたのは最初の10分間だけ、前半で5トライを奪われ。1PGを返したのみで敗れ去った。打倒八幡を目指す長い旅の始まりである。

1958年度 八幡製鐵に善戦空し

八幡製鐵の強力FWに対抗すべくFW4選手を補強、しかし八幡製鐵のFWも新戦力が力をつけ、一段と力強くなりつつあった。  薬院グランドが廃止され、毎日電車の切符をもらって修猷館、福高、九大等へジプシー練習が続く。シーズンに入ると裸電球臨時照明も出現した。  
九州予選、九電は1回戦で三菱化成を69-0、準優勝で門鉄を76-0と一蹴し、12月7日平和台の決勝で八幡製鐵と激突した。試合は一進一退の緊張した攻防が続く。前半23分に宮井-土屋に走られて3点を許したものの後半に入っても混戦が続く。9分、16分とチャンスがあったが八幡製鐵の厚いディフェンスに阻まれた。手に汗握る大接戦であったが21分再び宮井に走られて力尽きた。  
この年4年間努めた橋本部長に替わり、永倉部長が就任した。

1959年度 3度目の全国大会で八幡製鐵と対戦

現役出身の伊勢監督が就任、初めて練習場に立つ監督が登場した。明大からWTB榎本が入部し先輩宮井の対面となる。合宿は自衛隊雑餉隈部隊、厳しい規律と大量の食事に悩まされる。  
八幡のいない九州予選は久留米自衛隊、三井化学を破って3度目の全国大会出場を果たす。1回戦で自衛隊富士部隊を破って2回戦で宿敵八幡と花園の舞台で対決した。前半1トライずつの接戦から19分宮井の巧走でトライを奪われ、後半の追撃ならず涙を飲んだ。  
電力大会開催が春から秋に変更され、この年は2度行われた。秋は初の九州開催、折からの伊勢湾台風に襲われた中部電力からは代表1名の参加、九電Bチームと連合を組んで出場した。